【財閥】ロックフェラー家って何?詳しく説明・解説!

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現在1番使われているエネルギーは石油です

石油は19世紀後半にその利用方法が理解されるようになると、次々と油田が開発され一躍世界の主要エネルギに躍り出ます。

当時のアメリカでこのいち早く石油に目をつけ石油事業で財をなそうとした1人の若者がいました。

後に石油王と呼ばれ、世界有数の大富豪となったその男の名前はジョン・D・ロックフェラといいます。

ロックフェラー家と名前を聞いたことがある方もいるかもしれません。

ヨーロッパのロスチャイルド家と並び世界最大の財閥と評されるロックフェラー家の反映はこの「石油王」の成り上がりから始まりました。

 

今回はジョン・Dロックフェラー、世界で最も影響力を持ち続けるロックフェラー家とはなんなのかについてです。

 

ジョン・D・ロックフェラーの誕生

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後にアメリカ1の大富豪となる男ジョン・D・ロックフェラーは1839年7月8日ニューヨーク州の小さな村で産まれました。

ジョンは6人兄弟の2番目、両親にとって初めての男の子でした。

その家庭環境はすこし変わったものだったと言われています。

薬草医」を自称し怪しげな健康食品や薬を売って生計を立てていた父親ビルは家庭を顧みないだらしない男でした。

頻繁に家を空け、放浪癖のある父親のお陰で一家は常に貧しい生活を送ります。

長男であったジョンはこうした家庭環境の中で母親や兄弟を守るため七面鳥やじゃがいもを売ったりしながら家計を助けたのです。

しかし、父親としては頼りない男でしたがセールスマンとして商品を売るその姿はジョンに大きな影響を与えました

あるときビルは物を売って商売する息子にこうアドバイスします。

「ジョンよ、小皿と大皿を交換するんだぞ」

この意味は至ってシンプルで価値の小さいものを価値の大きいものと交換して利益を得なさいという意味です。

それ以降ジョンは、生涯を通してどうしたら利益の出る有利な取引ができるのかを心がけるようになります。

風変わりな父親ビルでしたが、その一方で母親はどういう人物だったのでしょうか。

ジョンの母親エリザは敬虔なクリスチャンでした。

聖書の教えを大切にしていて毎週日曜には必ず教会に行って献身的な奉仕活動を行ったと言われています。

エリザは、ジョンに聖書を基本とした多くの教えを与えます。

こうした母親の教育が影響しジョンは生涯を通して奉仕活動や慈善寄付を積極的に行うようになったのです。

また家を頻繁に空けることの多かった夫の代わりに、エリザが子供たちの世話からお金の管理までおこなっていました。

苦しい家計の中で母親は子供たちにこう教えこみます。

「闇雲にお金を使えば惨めな程に貧しくなってしまうものよ。」

ジョンは母から倹約というとても大事な大切な事を学んだのです。

父親は常日頃から儲けることを考え 「チャンスがあれば息子たちだって騙すさ。そうやって奴らの感性を敏感にしたいんだ。」

とまで言っていた父親。

その一方でキリスト教教えを大切にし辛抱強く生きてきた母親。

全く反対の考えを持つ二人の間で育ったジョンはその後、ビジネスと奉仕の両面で世界に多大な影響を及ぼす大成功者へと成り上がります。

アメリカの石油王へ

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時は流れ1855年アメリカの先住民族が薬のために使っていた黒色の液体についてある発見がなされました。

この黒色の液体とは発掘されたばかりの石油の事なのですがこれを精製しランプ用の油に利用したところよく燃えることがわかったのです。

元々、石油自体は古代から発見されて居ましたがそのドロドロと怪しげな雰囲気や石油を燃やす過程で発生する有毒ガスの影響で人々は石油に近づこうとしてこなかったのです。

しかし、不純物が多くドロドロの状態から精製して綺麗でサラサラな状態にすることで無害な燃料にすることに成功します。

こうして石油の正しい利用法が発見されるとアメリカ各地で油田の発掘調査が盛んに行われるようになりました。

数年後にはアメリカのペンシルベニア州で初めて石油を人工的に掘り当てることにも成功しています。

こうして国内が石油フィーバーに湧く中でその将来的な価値にいち早く気が付きビジネスを始めようとする男がいました。

それがジョン・D・ロックフェラーです。

ジョンは考えます、「多くの人たちは原油を発掘することに躍起になっているな、なら石油を精製する会社を作れば市場での石油の流れをコントロールできるんじゃないか?

発掘されたばかりでドロドロな状態の原油は精製会社にサラサラな状態にしてから利用されることがほとんどです。

つまり、世間で使われる石油を売る事ができるのは精製会社でありその量や価格までコントロールできるのではないかと考えたのです。

当時、20代前半の若さで今で言うベンチャー企業の社長だったジョンですが成長を続ける会社を手放して石油事業に専念する事を決断します!。

1965年に自身の石油精製会社を設立するとその後「スタンダート・オイル」へと名前を変えました、このスタンダートオイルの躍進こそジョンが「石油王」と呼ばれた理由でありロックフェラー家を語る上でとても重要な出来事なのです。

ですがこの「スタンダートオイル」同業他社ひいてはアメリカ政府にとっては恐怖の存在でした。

なぜ恐怖なのか?それは強引な経営手法にあります。

スタンダート・オイルが重要視したのは競合他社の「買収」だったのです。

スタンダート・オイルは事業が軌道にのり高品質のサービスが提供出できるようになると、それより劣った会社を吸収することで勢力を拡大させていったのです。

ジョンは競争相手にどのような相手と戦っているのかを分からせるため敢えて自社の会計帳簿を見せ優位性を明らかにした上で買収を繰り返したと言われています。

それでも戦意喪失せずにせずに立ち向かってきた会社に対してもあらゆる手を使い倒産寸前まで追い詰めると最後には安く買い叩いて自社の傘下に加えました。

また、石油の卸売業者や販売代理店などの仲介業者を排除することで市場に流通する石油価格までもコントロールしようとします。

このように競合他社を蹴落とし回収を繰り返すうちに設立からわずか十数年でアメリカ石油産業の約90%を支配するほどの影響力を持つようになったのです。

しかし、こうした状況も長く続きません。

そもそも市場の90%をひとつの会社が独占するというのが法律違反です。

同じ品質の商品があればその中でも安いものを選びますよね?

いくつもの会社が自分たちの商品を1番に買ってもらおうと品質の良いものをより安く出すからこそ自然に適正価格が付けられるのです。

ひとつの会社グループが市場を独占している場合価格競争が起きません。

価格競争が起きないということは独占している会社が提示した値段がそのまま業界の標準価格となるのです。

つまり、どれだけ高い値段であってもしかたなくそれを買うことになるわけですね。

ましては石油という巨大エネルギー産業でそういう状態になると国をも動かす力を持つことになります。

こうした状況を危険視したアメリカ政府は遂に「スタンダート・オイル」の解体に乗り出します。

もちろんこれは簡単にはいかず裁判にまでもつれ込みますが結局アメリ最高裁判所の判決により「スタンダートオイル」は30社以上の子会社に分割されることになります。

しかし、「スタンダート・オイル」が解体されたからといってその力が失われたかと言うと全くそういうわけではありません。

会社が分裂した事によりスタンダート・オイル自体の規模は小さくなりましたが子会社はスタンダートオイルの力を受け継いでいます。

子会社の株価は急騰することとなりジョンの資産は5倍以上にも膨れ上がりました

ジョンは最も多い時アメリカのGDPの約1%という桁違いの財産を手に入れたと言われています。

現在でも世界的子会社に「エクソンモービル」「シェブロン」といった会社がありますがこれは「スタンダート・オイル」が分裂してできた会社です。

このように今なお存在感を示し続けているジョン・D・ロックフェラーはアメリカ産業史においてまさに「石油王」と呼ばれるに値する人物だったのです。

世界一の慈善家へ

しかし、ジョンの物語はこれで終わりという訳ではございません!

彼には石油王とは別に慈善家という一面もあります。

ここからはジョンのもう1つの顔である「慈善家」について見ていきましょう!

ジョンはその生涯を通じて母親から「3つの約束」を忠実に守りながら生活していました。

その3つとは

  1. 収入の10分の1を教会に寄付すること
  2. 教会に行ったら必ず最前列で礼拝を捧げること
  3. 教会の教えは素直に聞き入れ牧師を悲しませないこと

中でも収入の10分の1を教会に寄付することはジョンが実業家として成功しどれだけ莫大な利益を手に入れてもやり続けました。

例えば100億円を稼いでいたのであれば10億円を寄付するということです。

収入の10分の1というと漠然とした数字に見えますがアメリカいちの大富豪である彼の寄付額は相当なものだったと言われてます。

では、ジョンのおこなった慈善活動が社会にどのような影響をもたらしたのか具体的な3つの事例をご紹介します。

 

シカゴ大学創設

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まず1890年の シカゴ大学の創設 です。

シカゴ大学は年齢・性別・人種・国籍など様々なバックグラウンドを持つ人達に「平等に学ぶ機会」を与えるために作られました。

ジョンの土地や莫大な額の支援金提供がなされたこの大学は現在世界で最も評価の高い教育機関のひとつに数えられています。

またノーベル賞受賞者を100名も排出しており化学・経済・物理など様々な分野で世界最先端の研究が行われています。

 

ロックフェラー医学研究所

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次に紹介するのが1901年のロックフェラー医学研究所の設立です。

ロックフェラー医学研究所はアメリカで最初の生物医学研究施設で感染症や公衆衛生の研究を行う目的で設立されました。

これまでに化学・生理医学の分野で20人以上のノーベル受賞者を輩出し、それ以外にも多くの科学的発見がなされています。

日本の野口英世もロックフェラー医学研究所で黄熱病や梅毒の研究をおこなっていました。

現在はロックフェラー大学に名前を変えて生物・医学分野で数々の優秀な研究者を輩出しています。

 

ロックフェラー財団の創設

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最後に紹介するのは1913年のロックフェラー財団の創設です。

ロックフェラー財団は「人類の福祉の増進と教育」を目的として創立された団体で現在「世界で最も影響力のあるNGO」だと言われています。

ジョンはこの団体に累計1億8200万ドル日本円で言うと約190億円以上の資金を提供しました。

慈善活動は医療・自然・農業・芸術・社会・国際関係など多種多様であり世界中の科学者がこの団体の援助を受けて最先端の研究を行っています。

またロックフェラー財団から寄付を受けている組織も数多くあり有名なものに

外交問題評議会

世界銀行

ハーバード大学

・イェール大学

アメリカ議会図書館

など多数の組織に寄付しています

実は日本もその例外ではなく厚生労働省の機関である国立保健医療科学院はもともとロックフェラー財団の経済的援助を受けて設立されました。

このように世界規模で活動し「全ての人間が平等の権利を持つ」ことを目標に多くの支援を行っています。

代表的な慈善事業を3つ紹介しましたがその全てが現在でも世界的な影響力をもつ施設として機能しています。

多額の資産を保有しビジネスの第一線を退いたジョンは、その晩年事前活動に多くの時間とお金を費やしました。

子供の頃から母に教えられた奉仕の心

それをジョンはアメリカ産業の頂点にたってからも忠実に守り続けたのです。

こうした聖人的な1面とビジネスでの悪魔的な一面を持ち合わせたジョンの見方はさまざまです。

ただ社会に多大な影響を及ぼした「石油王」の功績はアメリカ国民の心に刻まれ今でも伝説として語り継がれているのです。

1937年、97歳でこの世を去った彼の手元には極わずかな資産しか残されていませんでした。

これは生前、自身の財産のほとんどを一族に贈与しとりわけ息子のジョン・D・ロックフェラー・ジュニアにその多くを分け与えたからです。

こうして一族は莫大な財産を獲得し「ロックフェラー家」はアメリカで最も裕福な一族になったのです。

 

ロックフェラー家

 

多額の財産のロックフェラー家では一体どのような人物がいるのでしょうか?

実はこの一家ジョン以外にも社会に大きな影響を及ぼした人物を数多く輩出しています。

ロックフェラー家を構成する代表的なメンバーについてもみてみましょう!

 

ウィリアム・ロックフェラー

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まず初めに紹介するのがジョンの弟であるウィリアムです。

ジョンと並びロックフェラー家の始祖にあたるこの男もスタンダートオイルの設立に貢献した人物です。

元々はジョンと共同で石油精製会社を設立させたウィリアムですがその後ニューヨークでナショナルシティ銀行を創設しています。

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この銀行は現在シティグループと名前を変えアメリカ4大銀行のひとつに数えられるほどの世界的な大企業へと成長を遂げます。

 

次に紹介するのがジョンの息子であるジュニアです。

ジョン・ロックフェラー2世

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ジョンは一人息子のジュニアを自身の跡取りとすべく若くして重要な役職を数多く任せます。

しかしそれはジュニアにとって重圧でしかなく父親のように結果を残すことができませんでした。

ただ、彼は慈善事業で大きな功績を残しました。

一族と共同してロックフェラー財団ロックフェラー大学を創設したり自然保護や文化事業に大きく貢献したのです。

また、1930~39年にかけて行われたロックフェラーセンターの建設のためジュニアは多額の資金を提供しています。

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ロックフェラーセンターとはニューヨークの中心に建てられている超高層ビルと複数のビルからなる複合施設のことです。

100年たった現在でも芸術や流行・娯楽の中心地として賑わう大型施設ですがこの建設が開始された年に注目してみてください。

1930年とは世界恐慌が始まった次の年になります。

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世界恐慌とはアメリカの株価が大暴落したことで始まった世界的な大不況の事ですがこうした状況の中ロックフェラーセンターの建設が開始されたのでした。

その当時のアメリカは失業者が急増しニューヨークは職を探す人達で溢れかえってました。

街全体の活気が失われた大不況時代に始まった建設計画はいわば経済復興のためのシンボルのようなものだったのです。

大規模な建設作業が始まったことでそれに関する雇用が数多く生み出されます。

ロックフェラーセンター建設がアメリカの経済回復の足掛かりとなりアメリカ国民も活力を徐々に取り戻していったのです。

ジュニアは妻や息子に「一番立派な人間は人のために生きるものだ」と言い聞かせ慈善事業に生涯を捧げました。

 

ジュニアの姿を見て育った次男のネルソンは政治界で大きな影響力を持つ人物へと成長します。

ネルソンはニューヨーク州知事を務めた人物です。

アメリカの地域政治や教育東西冷戦が激化する中での国際協調などに尽力し何度も大統領候補に名前が上がるほどの実力を持っていました。

結局大統領になることはありませんでしたが当時の大統領に指名され第41代アメリカ合衆国副大統領に就任するなど政治家として大きな役割を果たします。

デイヴィッド・ロックフェラー

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その弟であるデビットは銀行家・実業家・慈善家なと様々な分野で活躍したロックフェラー家第3代当主です。

デビットは祖父ジョンが設立したシカゴ大学で経済学博士号を習得するほどの頭の持ち主でありニューヨークにあるチェース・マンハッタン銀行のCEOに就任します。

銀行家として各地を飛び回りチェース・マンハッタン銀行を世界70ヶ国に支店を持つ大銀行へと成長させます。

このチェースマンハッタン銀行が現在のJPモルガン・チェースとなるのです。

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また、世界各国の政治・経済界に幅広い人脈を築くと当時アメリカと対立していたソ連にはじめての米銀行の支店を設立するなどの功績を残します。

その他に芸術や文化などの慈善事業にも力を入れ一族が設立に関わったニューヨーク近代美術館の理事として長く関与し続けました。

このようにビジネスと事前活動の両面でロックフェラー家当主の役目をまっとうしたデビットは2017年101歳でこの世を去りました。

 

ジョン・ロックフェラー4世

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デビットの後を継ぎ現代第4代当主としてロックフェラー家を引っ張っているのがジョン・ロックフェラー4世です。

4世は、ジュニアの息子です。

つまり3代目であるデビットの甥っ子です。

ロックフェラー4世は日本とも馴染み深く東京の国際基督教大学に3年間留学していた過去もあり親日家だと言われています。

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アメリカで最も貧困率の高いウェストバージニア州で知事や上院議員に歴任し政治家として社会に貢献する道を歩んでいます。

州知事としてウェストバージニア州と日本の関係強化にも努め2013年には日本から旭日大綬章が贈られてます。

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このように一族ひとりひとりの活躍が社会の発展に大きく貢献しているんですね!✨

 

ニューヨークの小さな村で生まれたロックフェラー家初代のジョンは両親からビジネスと奉仕を学びそれを実践し続けました。

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そしてその教えは子供たちに受け継がれ現在でもロックフェラー家の重要な指針として一族を導き続けているという訳なのです。